原書房版『ホビット』について


 特に英語ができるわけではないので、今回の翻訳にあたっては、わからないところはばんばんとばすか、あるいは適当に想像して書くという手法に徹した。調子のいいときなど勝手に話を増やしたりまでした。
 原文の雰囲気をできるだけ損なわないように、というような配慮はまるでしておらず、そもそも原文の雰囲気が理解できるほどの英語力がないためどうしようもなかった。
(1997年4月25日『悪魔の国からこっちに丁稚』L・スプレイグ・ディ・キャンプ 田中哲弥訳「訳者あとがき」より

2002.3.1 高橋誠

 原書房から出た『ホビット』(h)について気になることを纏めてみました。比較に使ったのは次の資料です。

 また、この原書房版と岩波版について西村セオデン隆さんが、詳細な比較を纏められています。

 この頁の内容について、2001年5月2日に山本史郎氏よりのメールを頂きましたので許可を得て掲載します。高橋の頁以外へのコメントを除いた以外は一切原文のままです。また、下記の該当部分にも引用しました。

誤訳

 ざっと読んで目に付いたものだけですが列挙します。他にも「ここが変だが」等疑問のある方は是非までご一報を。

「ふつう日に二度とる習慣になっている食事の後などは、とくにそうです。」(18ページ)
especially after dinner, which they have twice a day when they can get it

 これではホビットの食事の回数が少なくなってしまいます。『指輪物語』の序章の説明によると、ホビットの普通の食事は日に6回です。dinner と meal の違いは中学校で習いますが・・・ ちなみに岩波版では、

「ことにごちそうを食べたあとはにこにこです。ごちそうは、なるべく一日に二度食べます。」(上巻 14ページ)

となっています。

 「食事が日に二回」というのは、たしかに、まずかったと思います。「食事」と書きながら、その他に、breakfast, supper, tea(これは軽い食事です), それにおやつは何回食べるのだろうなあ? などと思っていたような気がします。しかし日本語で「食事」と言ってしまうと、それらを含めての話になってしまい、へえ、日に二回しか食物を口にしないのかと受け取られてしまい、それではまずいと思います。とはいえ、「ごちそう」という語のニュアンスが正しいのかどうかはやや疑問です。とにかく、一日のうちの breakfast, supper,tea などに比べてやや本格的な、中心となる食事が dinner というだけの話です。例えば、イギリス人の同僚と、夕方、近くのそば屋に行って安いそばを食べようなどというときには、“Let's have dinner at...”などと誘ったりするわけです。けっして「ごちそう」ではありません。ただし通常では dinner は日に1回というのが常識なので、日に二回取るとなると、へえ、くいしんぼうだなあ!と軽い驚きを与え、そこに言うに言われぬおかしみがただようわけです。しかし、さらに考えを進めて、現世肯定的なホビットなら日に二回豪勢な「ごちそう」を食べているはずだと結論するなら、誇張を含めた意味で「ごちそう」でもよいかもしれません。(山本史郎氏)

ぶしつけな言い方ですが、あなたがまだ現役でいらっしゃったとは」
(中略)
「お言葉をかえすようですが、私は何もお願いしていませんよ」
「いやいやせっかくのお言葉だが、願いは聞いたぞ――二度もな。(23ページ)
I beg your pardon, but I had no idea you were still in business.'
(中略)
‘I beg your pardon, I haven’t asked for anything!’
‘Yes, you have! Twice now. My pardon.

 ここはビルボが二回もI beg your pardonを言ったのを受けて、二回といっているので、ただ二回といっても何のことか分かりません。もちろん岩波版では、

おゆるしください。でもわたしは、あなたがまだ、仕事をなさっているとは知らなかったもので……」
(中略)
「ごめんください、でもわたしは何も求めていませんよ。」
「いや求めているとも.いま二度も、おまえさんは、くださいといったぞ。(上巻 20-21ページ)

と「ください」の繰り返しに反映されています。本件は、東北大学のファンタジー文芸サークル「幻想文学研究会」の難波裕さんからお知らせいただきました。(2002.1.31)

祖父のスロールがモリアの炭鉱で(46ページ)
Your grandfather Thror was killed, you reme,ber, in the mines of Moria

 直前にトーリンは「石炭堀りにまで、身をおとしたこともある」といっていますので、モリアのことを「炭鉱」などといっては大変なことになるでしょう。「モリアの炭鉱」の言葉は47ページにもあります。もちろん岩波版では

モリアの鉱山こうざんで(上巻 58ページ)

となっています。本件は、Amazon.co.jpの書評で指摘されていました。(2001.6.29)

蝙蝠コウモリみたいに飛べないし、フクロウ鳴きなどできやしないが、ビルボは行くしかありません。(59ページ)
Off BIlbo had to go, before he could explain that he could not hoot even once like any kind of owl any more than fly like a bat.

 唐突にコウモリが出てきます。瀬田訳では

ビルボは、したことのないフクロウの鳴きまねなんか、コウモリのように飛べないも同様で、とてもできない、といおうとしましたが、話すひまもないうちに、出かけなければなりませんでした。(上巻 74ページ)

とビルボがいい訳しようとしたことが抜けています。本件も難波裕さんからお知らせいただきました。(2002.1.31)

「エルロンドの二人の人間に出会った」(71ページ)
I met two of Elrond's people.

 エルロンドの所に人間が皆無とは言いませんが、恐らくエルフであると考えられます。peopleというのは人間以外の口を聞く種族も包含する表現として、選ばれた単語なのですが・・・ 岩波版では

「エルロンドの者たちふたりにであった」(上巻 93ページ)

で、このことがきちんと考慮されています。似た問題としてアーサー・ランサムが「ゴブリンをboysで受けるとおかしい。」とコメントを付けて、トールキンもみとめたという内容の手紙が残っています。(420ページの註7)

 次に、拙訳でさまざまの種類の存在を人間であるかのように呼んだりしていることをご指摘ですが、これは、あの物語の中ではすべての者が疑似的に人間のようにとらえられていると感じたので、そのように処理しました。ご指摘の箇所ですが、トールキン自身がエルフのことを "people" と呼んでいて、これはやはり普通なら人間にしか用いない言葉です。つまりトールキンは、読者がやや抵抗を感じる言い方を、わざとしているのだと思います。(現に、ゴブリンのことを "boys" と呼んでいる箇所は、けっきょく変更しなかったわけです)。したがって、そのままストレートに訳した方がむしろよいと感じました。しかし、たしかに、「エルロンドのところの人々」とでもした方がよかったでしょうね。(山本史郎氏)

人々の話し声が聞こえてきました。」(129ページ)
he heard voices.
人々が話をしているのです。」(130ページ)
people were talking

 ここでも話しているのはドワーフたちとガンダルフなので人間はいません。岩波版では、それぞれ

なにかの声をききました。(上巻 184ページ)
だれかが話しているのでした。(同上)

と、うまく処理されています。

「西の高地の妖精」(217ページ)
the High Elves of the West

 『指輪物語』の固有名詞便覧にもありますが、High Elvesは「大海のかなた至福の地アマンに住んだことのある、また現に住んでいるエルフ」(268ページ)のことであって、物理的に高い所に住んでいるという意味ではありません。もちろん岩波版では

「西のくにの上のエルフ」(上巻 326ページ)

です。

 まず“High Elves of the West”についてはご指摘のとおりです。後日機会がありましたら改めたいと思います。(山本史郎氏)

クリスマスの季節を祝って暖かく、楽しいもよおしが」(362ページ)
Yule-tide was warm and merry there

 これはキリストが生まれたことになっている頃よりずっと古い話なのでクリスマスという言葉は誤りです。もちろん岩波版では

年のくれの祭のころは、あたたかで、にぎやかでした」(下巻 247ページ)

です。

 「クリスマス」も悩んだところです。これもうっかりミスというわけではなく、悩んだ末に、処理仕切れず残してしまったという感じです。原文には、「遠く離れている家族が集まってきてお祝いするクリスマス」という気分が濃厚に感じられます。英米の「クリスマス」には19世紀の作家チャールズ・ディケンズがこのような楽しい家族的クリスマスを描いていらい、そのような連想のはたらくものとなりました。したがって、ただ、季節や時期を示せばよいというものでもないという風に、訳しながら感じていましたが、時代錯誤の点も考えるいっぽうで、それとともに、日本語で「クリスマス」と言った場合に、どう感じられるかが問題ですから、ストレートに「クリスマス」と訳してしまうのはどうかなあ...などと悩んだわけです。が、これがそのまま残ってしまったのは、確かに不備ではあります。原語では Yule-tide という語が用いられています。これはもともとケルトの時代にさかのぼる冬至の祭のことでしょう。いずれにせよ、ホビットの時代はそれよりももっと以前のことだと思いますが...(山本史郎氏)

「付録E、第2部“シルス”」(399ページ)
Apendix E, Section II,“The Cirth”

 『指輪物語』のことを「指輪の王」なんて直訳で参照することが多くて、対応が取れなくて困るのと同様、「追補編」も「付録」になって参照がしにくくて困ります。さらに「シルス」は誤りです。まず、『指輪物語』追補編E Iによると、Cは常に[k]音となります。また、irの組み合わせは英語のfirではなくeerの母音と同じ発音になりますから、評論社版の

キアス(『指輪物語 追補編』157ページ)

と比べるまでもなく、誤りと分かります。

 「シルス」。名前の発音については、今になれば変えた方がよいと思われるものが、このほかにもあります。たとえば「ソーリン」は「トリン」とすべきだと思います。しかし、その一方で、トールキン自身も HOBBIT のころは、まだ決定的なかたちの発音体系を持っていなかったのではないかと思います。第一、かなりのドワーフの名前が英語風です。固有名詞の発音だけではありませんが、後にトールキンが考えた体系なり枠組なりを、すべて当てはめなければならないかどうかは、意見の分かれるところだと思います。トールキンは『指輪』の展開など頭になく、自分の子どもを楽しませることだけを念頭におきながら、HOBBITを書いたのではないでしょうか? そのため、『指輪』との矛盾や齟齬が時々感じられます。たとえば「ゴクリ」は、『ホビット』と『指輪』では原文を読んだ印象がまったく違っています。命がかかっているとはいえ、「謎々」を互いにむかって掛け合う牧歌的でおとぎ話風のゴクリと、『指輪』に登場する、もっとリアルで陰険そのもののゴクリは別人のように、小生には感じられます。(山本史郎氏)

 この「キアス」は『ホビットの冒険』でなく、『指輪物語』に出てくる名前です。また、『指輪物語』追補編F II「翻訳について」にはドワーフの名前についても翻訳したと書いてあります。(高橋)

不自然な会話

「ビルボよ! 君どこかおかしいよ! 君、以前とはまったく別人になってしまったね!」(372ページ)
‘My dear Bilbo!’ he said. ‘Something is the matter with you! You are not the hobbit that you were.’

 これがガンダルフの言葉なんです。「君」なんて言葉にあわないです。それに「どこかおかしいよ」ではガンダルフがビルボの成長に感じ入っていることが伝わらなくなっています。次の岩波版とは比べるまでもありません。

「なんと,ビルボ!」ガンダルフがいいました。「あんたは、どこかえらく変わったなあ! もうむかしのホビットじゃないわい!」(下巻 260ページ)

 Something is the matter with you! You are not the hobbit you were! について、「ガンダルフがビルボの成長に感じ入っていることが...」とお書きですが、これは誤解ではないでしょうか? ガンダルフは、単純に、中年のおじさん然となったビルボをからかっているのだと思います。「違うぞ、違うぞ! 本来の君はそんな者ではないはずだ!」というからかい半分、非難半分がこもったセリフです。(少なくとも、もとの表現、文脈ではそうとしか取れません)。これの訳として、突然あらたまった言い方で、相手をからかい半分にたしなめているといった感じが出ていなかったとすれば、訳者の失態です。ちなみに、原文のガンダルフの語り口では、皮肉なユーモアがとても目だっています。以前にイギリスBBCで製作された連続ラジオドラマ(カセットテープで販売されています)でも、ガンダルフは、ビルボをからかうような、かなりきつく、まるで早口の若者のような喋り方をしていて、はじめて聞いたとき驚くとともに、白髪の老人でゆっくりした喋り方をするはずだなどというような先入観を見事にうちくだかれました。これは、なにも、BBCの解釈が絶対だというわけではないのですが、そのようにも解釈できる作品、人物像であるということが言いたいわけです。このことは、『ホビット』に付けられた各国の挿絵を見ても、とらえられているイメージが実にさまざまであることからも、納得されるのではないでしょうか。さて、1997年以前には、HOBBIT の日本語への翻訳は一種類しかなかったわけですが、翻訳というのは原文を翻訳者がいかに解釈して、それを日本語に移すかという問題ですから、さまざまの提示の仕方があってよいのではないでしょうか。小生が原文を読んだかぎりでは、少なくとも HOBBIT の最初の数章は、登場人物の動き、文体の両方で、子どもを喜ばせるためのコメディ的な仕掛けが、いっぱいに詰め込まれています。また、ごく平凡なイギリス人が読むと、「奇妙な英語だ」というほど、妙に凝ったみたいな、無理な冗談をいってるみたいなところもある文章です。小生の場合、そんなニュアンスを漏らすまいという意識が強すぎたかもしれません。初期のトールキンには読者を喜ばせようというサービス精神にあふれたような雰囲気があり、ついのせられてしまいました。(山本史郎氏)

不親切な点

「その理由は『指輪の王』第3巻、415ページに述べられている。(16ページ)

 どうも『指輪物語』というのをお嫌いなようで、「指輪の王」なんて直訳を多用されています。また、評論社から出た『指輪物語』を参照することも想定されていないので、原書のページが示されています。対応する邦訳の書名とページにするのが親切な処置だと思われます。不思議なことに、『赤毛のアン』については原題の直訳が『グリーンゲーブルズのアン』だということは気にされていないようです。

失礼な点

岩波書店の「岩波少年文庫」に、瀬田二訳で収められています。(445ページ)

 「岩波少年文庫」以外の版もあるのはまだいいとして、名前を間違えて平気で本を出してしまうなんて・・・

いなさんからの感想

 山本氏からの手紙について、掲示板にいなさんのコメントを頂いたので許可を得て転載します。

 愛媛:稲田といいます。よろしくお願いします。

 今回の訳:「ホビット」に関しまして高橋氏運営の「赤龍館」で拝読させていいただいているものです。今回、山本氏からのメールを読ませていただき、その感想を含め、2、3書かせていただきます。

 まず、このような機会を作っていただきました高橋氏に改めて感謝します。

誤訳・意訳のあり方について

 私は貴方が「新訳:ホビット」を出される前まで、瀬田氏の「ホビットの冒険」 にいわば浸かっていました。わたしは瀬田氏の訳を「スタンダード」としてまた「ガイドライン」 として貴方の本を読みましたので、かなりの違和感を感じました。例えは悪いですが、お札が変わっ たときみたいに「おもちゃ」のようなかんじでした。しかし、誤訳に関してこのような形で素 直に公開されたことに非常に好感をもてました。

 ただ、貴方のメールの文中にもある「モンゴメリ」ファンではなく「村岡花子」ファンとあります。これは、違いますね。これは、結果的にどうであれ「赤毛のアン」のファンだとおもいます。

 わたしも、J.R.Rトールキンには感謝をしています。さらに、挿絵の寺島さん、瀬田さん、今回の山本さんにも感謝しています。しかし、好きなのは「ビルボ」であり、世界観であり、物語なのです。それは、瀬田さんからのいわば意訳をもとに私はその世界を知りました。そしてすっかりファンになったのです。その古風な言い回し、わくわくするような語り口、大好きです。

 そこに、あなたの本を見つけました。しかし、これは不思議なことにぜんぜんわくわくしません。なんか、ビジネスレターのような殺風景な文体です。わたしはそこに貴方の素直に訳されたと表現しているというところが非常に悪影響にでているように感じました。

 意図的に、前訳の部位をさけたと思えるのは、致し方ないと思います。それは、どう読んでもそう感じます。でも、これが、前訳のよい点をふんだんに盛り込まれた内容なら、それは、私はまた違った感じだったのだとおもいます。

 原作者に関しての無理の無い意訳をされて、さらに文体的に日本語に直すのが難しいと思われる点、それを適切な日本語に当てはめる点。これは、非常に難しいことのように感じます。

 貴方は、このような偉業に挑戦され訳本を出されています。大変尊敬はいたしますが、その中に現状私たちが何年も暖めてきた世界観を無理やりに壊さないよう最善を払ってほしいです。

 私の中の世界観を英語の原本からいただいていたら多分、共感を持てる感が多いと思います。その立場にあってこそ異論をあげるべきだと思いますが、これから先「ホビット」を読まれるその読者にも解釈あまり違う(言い回しが違う)本が2冊あり、その文体が世界観をごちゃごちゃにさせるようでは、非常にこまります。

 出版社等あらゆる事情があると思いますが、今度出される機会があるようでしたら、今回の誤訳の訂正を含め、瀬田氏の訳された誤訳文の指摘修正、よい部位の引用、それを統合化された本を書いていただけたらなっとおもいます。

 でも、最後にこのような疑問をもつのも結果的には貴方が本を訳されたことによりできるわけですし私もその点では少し眼を覚まさなくてはいけないのかなっと思う節もあり、原書のニュアンスの分かるようなそんな者に努力したいと思います。

 では。(2001.5.3)

 今回の内容にやはり看過できない部位があるので何がやっぱりいけないのか噛み砕きながら基本にかえりちょっと自論ですが整理をしました。

第一にいいたいのは「ホビットはイギリス人ではない」ということ。

 ホビットの種族はわれわれ人間にとても近いということは確かであるがまずイギリス人の習慣をなぜに物語の中に入れなくてはいけないのだろう。と思います。

 翻訳者はまず、英語という姿をしている文体をその環境に適切に配置しそれを推敲して日本語化する。さらに作者の意図を忠実に再現するように配慮する。ということは分かりきったことですが、この作品は「シャーロックホームズ」ではありません。「名探偵ポアロ」でもありません。「モモ」でもなく。「ホビット」が主人公でそれを擬人化していても作者が自分のたしなみを盛り込んでいてもそれはうまくいえませんが、「イギリス人」ではないのです。

 イギリス人の作品をその文体にでてくる「習慣」をそのまま当てはめて書かれると物語はいつのまにかそのリアルさゆえにあまりにも「現実」の世界に近くなり、物語独特のにおいまでもが犯されなくなり、そして機械のような冷たい寂しい言葉の羅列になってしまうのです。

第二に「若くなったり・年取ったり・なぜだろう」という点

 日頃から、思っている個所を提示します。この部位は山本訳と岩波版でのニュアンスの違いが出ているのほんの一例です。日本人にとってどちらが、より「ホビット」や「魔法使い」や「ドワーフ」を楽しくみることができるでしょうか。

 これは、ある秋の晩、バーリンとガンダルフがビルボの屋敷をたずねるとこです。

 山本訳:
 「新しい町長はもっとさとい人で」とバリンがつづけます。「とても人気があるんだよ。なぜって、いまこのような繁栄をむかえているのも、ひとえにこの町長のおかげということにしてしまったのさ。連中は、町長の御世には川に黄金が流れ…なんて唄までつくっているのさ」
 「じゃあ、けっきょく昔の唄の予言が、ある意味で、実現したってわけだね!」
とビルボがいいました。
 「もちろんさ!」とガンダルフが答えます。「実現して当然じゃないか。まさか君、『予言なんかじゃないさ。実現させたのはみんな僕なんだからね』……なんて、言い出すんじゃあるまいね? かずかずの冒険と脱出劇が、ただ君一人を喜ばせるために、たんなる幸運のおかげですべてうまくいったなんて、本気で信じているんじゃあなかろうね? 君は素晴らしい奴さ、バギンズ君。わしは君のことがとても気にいっておる。しかし、この大きな世界の中では、君もしょせんはちっぽけな存在に過ぎないのじゃよ!」
 「そうだったのですか!」とビルボは言って笑いだし、ガンダルフに煙草たばこの葉のかんを渡しました。(376ページ)
 瀬田訳:
 「あたらしい統領とうりようは、ずっとかしこいひとだよ。」とバーリンがいいました。「それに人気がある。なにしろこの人のおかげで、いまの繁栄はんえいにいたったのだからね。みずうみの人たちは、この人のみに、川は黄金こがねとなってながれるという歌を作ったくらいなんだ。」
 「では、古い歌の予言よげんしたところは、どうやらやっと、ほんとうになってきたのですね!」とビルボがいいました。
 「もちろんじゃ!」とガンダルフがいいました。「歌がまことをあかさないことがあろうものか。あんたも、予言よげんしんじないわけにはいくまいよ。なにしろあんたも予言よげん実現じつげんには手をかしたひとじゃからな。ところであんたは、あの冒険ぼうけんがすべて、ただうんがよかったために、よくかわをつっぱらせただけで、きりぬけたと思っとんじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきなひとなんじゃよ。バギンズどの。わしは、心からあんたがきじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間せけんからみれば、ほんの小さな平凡へいぼんなひとりにすぎんのだからなあ!」
 「おかげさまで!」とビルボはわらいだし、ガンダルフにタバコ入れを手渡てわたしました。(下巻 267ページ)

 まず、この「ガンダルフ」がしゃべっている部分だけに着目すると山本訳では明らかにその文体が若くなったり、年を取ったりしています。それにこの2訳ではまるっきり温かみが違いませんか。私はこのことを言いたいんです。この部位はなにもかも終わって最後の最後のほんの一握りのエピローグに過ぎませんが、この文章で、この物語はおわります。また、意味の捉え方が、まるっきり違います。本当にこの部位は非常にまだ釈然としないのです。

 今回は、この辺で長くなりましたので終わります。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

やまなしさんからのコメント

 上記の手紙について、掲示板にやまなしさんのコメントを頂いたので許可を得て転載します。

 僕は、山本氏の訳の方向そのものに対する異論はありませんし、上記の目的にも賛意を持ちます。しかしながら…

 翻訳という作業に対する山本氏の態度に関して非常に違和感を感じます。jinn さんもかかれていますが、既に日本語に翻訳されたトールキンの作品との整合性、未邦訳の他の作品に対する理解、そういう配慮が充分であるとは思えませんでした。シルスしかり、高地しかり、指輪の王しかりです。このような簡単な誤訳が続くと、「おいおい、本当にこの人トールキン読んでるの?」という印象を受けます。これは是非あらためていただければと願っているのです。

--
やまなし

時代遅れの流行語

 誤訳とまではいえないが 「ナンタルチア!」 「抜作の田吾作」 なんて時代的な表現もさりげなく紛れ込んでいる。訳者あとがきには、新訳は若々しい言葉で装うべき、と書いてあるが、この様子では“若々しい”というより“ナウでヤング”とでもいった方が適切だろう。(上記Amazon.co.jpの書評より)

 周りの若い人に伺ってみましたが、「ナンタルチア!」 を知っている方は1960年代以前の生まれでしょうか? これが分かったからといって、エルロンドのように伝承の大家として尊敬されることではありませんが。

 某掲示板では、原書房版は「僕チン」訳として呼ばれていますが、precioussをこう訳しています。原書房版は岩波版と違いThe Hobbitの第3版を底本にしたことをうたっているのですが、第3版の改訂は例えば前書きの追加とか、『指輪物語』との整合性を取っていることです。『指輪物語』の中で、「僕チン」としたらどうでしょうね。

原書は研究書

 本書の原題は、The Annotated Hobbit、『注釈付きホビット』です。つまり、Douglas A. Andersonさんの膨大な注釈と調査された変更履歴が「売り」の研究書なのです。原書はほぼA4の大きなサイズになっていて、注釈も章ごとに纏めるのでなく、同一のページにあり見やすくなっていますし、各国版の挿絵も大きくて見やすいです。

 挿絵については、原書には各国語版からの引用の許諾の長いリストが掲載されていますが、原書房版にはなんら書かれていません。ちゃんと許諾をとったのでしょうか?

 また、いろいろな挿絵があるのは研究書としては興味深いものですが、普通に子どもが読んだり、大人でも読み物として楽しむにはイメージの統一を妨げるので良くないでしょう。原書房が普通の読み物のタイトルと体裁で出しているのが気になります。

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