遺書

 

 山本幡男は1954年8月25日戦犯として囚われていたシベリア地方ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で喉頭癌のため死亡しました。享年45歳。



(1)


山本幡男の遺家族のもの達よ!


 到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。

 鉛筆をとるのも涙。書き綴るのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!

 病床生活永くして一年三ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの百分の一も書き現せないのが何よりも残念。

 皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか? 唯無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を現し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ。

 唯一つ。何よりもあなた方にお願ひしたいのは、私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく意気ますます旺盛に振起して、

  病気せざるやう、

  怪我をしないやう

 細心の注意を健康に払って、丈夫に生き永らへて貰ひたい、といふことである。健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。決して無理をしてはいけない。少しでも可笑しいと思ったら、身体の具合をよく調べて予め、病気を防止すること。

 帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、それが実現できないのは残念、無念。この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら、寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。私の希みは唯一つ。子供たちが立派に成長して、社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。どうか皆さん幸福に暮して下さい。これこそが、この私の最大の重要な遺言です。



(2)


 お母さまへ(山本まさと)


 お母さま!

 何といふ私は親不孝だったでせう。あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)御苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、親不孝を重ねて来たこの私は何といふ罰当りでせう。お母さんどうぞ存分この私を怒って、叱り飛ばして下さい。

この度の私の重病も私はむしろ親不孝の罰だ、業の報ひだとさへ思ってゐる位です。誰を恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したい−−−と思ひ、楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に思ってゐるだけです。お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は満足したことでせう。十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられたお母さんに、先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。

 お父さんと、弟の勉と、妹のきさ子と四人で、あの世に会ふ日が来れば、お母さんの事を話し合ひ、お母さんが、安らかな成仏を遂げられる日を共に待つことに致しませう。あの世では、お母さんにきっと楽に生きていただかうと思ってゐます。

 しかし、お母さん、私が亡くなっても、決して悲観せず、決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来られたのです。その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間闘っていただきたいのです。その後は少し楽にもなりませう。私が、この幡男が本当に可愛いいと思はれるなら、どうか、私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍旧の努力を以て生きて戴きたいのです。

 やさしい、不運な、かあいそうなお母さん。さようなら。どれだけお母さんに逢ひたかったことか!

しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。



(3)


妻へ(山本もじみ) 


妻よ! 

よくやった。

実によくやった。

夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。

 これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐたこの私が恥しくなって来た。四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、中学校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江へ、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育の為に運命を切り拓いてきたものだ!

 その君を幸福にしてやるために生れ代ったように立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか!  

 一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった! 万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった! 

 ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。私は、だが、君の意思と力とに信頼して、死後の家庭のことは、さほどまでに心配してはゐない。今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に尽きる。子供等は私の身代りだ。子供等は親よりもどんどん偉くなってゆくだらう。

 君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだらう。どうかそうあって欲しいと祈っている。子供等を楽しみに、辛抱して働いて呉れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。君と子供等の将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。

 雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を生かしてくれ。

 二十二ヶ年にわたる夫婦生活であったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に唯々感激し、感謝し、信頼し、実によき妻を持ったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。



(4)


 子供等へ。

  山本顕一 

    厚生 

    誠之 

    はるか

 君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。

 成長した姿が写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・・・ああ何といふ可愛いい子供の時代!

 君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、到頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても残念だ。第一、君たちに対してまことに済まないと思ふ。

 さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも

 光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化−−人道主義を以て世界文化再建設に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君たちはどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を片時も忘れてはならぬぞ。

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無い−−−といふ覚悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け! 精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。

 四人の子供達よ。

お互いに団結し、協力せよ!

特に顕一は、一番才能にめぐまれてゐるから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。

 自分の才能に自惚れてはいけない。学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君等が博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君等の方へやってくることは必定だ。要は自己完成! しかし浮世の生活のためには、致方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だそ。

 君等が立派に成長してゆくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。

  最後に自作の戒名

久遠院法光日眼信士

       山本幡男

  一九五四年七月二日      



(5)


 敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において親しき交わりを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるよう貴下の心肝に銘じ給え。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝え給え。7月2日。



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死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ万一ノ場合ノコト

小生勿論生キントシテ闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ100%悲観セズヤツテユキマセウ(8月15日)




1954年8月25日午後1時半  山本幡男死去